私家版 カリキュラム研究所

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一章「できない」の構造

一章「できない」の構造

☆「できない」にも色々あるが、本稿では勉強が「できない」とはどういう状態のことをいうのか考察してみる。他の「できない」にも応用が利くと思うので、やりたい人は自分で考えてみてほしい。

「できない」という状態を調べるには、数学的に余事象「勉強ができる」を調べて、その否定を考える方法がある。世の中の大半の啓蒙書はこの戦略をとり、「できない」部分をまず理解することが大事なんだ、それを「できる」に変えていくことでより学力が向上するのだ、と説く。できなくても、できるようにすればいいとすぐ他の肯定的な言葉にすり替えられてしまう、「できない」とは何か。

まず「できない」には否定的なニュアンスが含まれており、気の短い大人はこの言葉を聞くと「できない」ではなくて「やってない」からだとご丁寧に訂正してくれる。何かの分野に関して、「できない」という気持ちを抱えていてもそれを続けていこうと思う限り、自分が「できない」とはあまり考えようとしないようにするだろうから「できない」とは何かといわれると多くの人にとって盲点ではないか。自分の「できない」を考察するのに、とてもいい方法がある。大きな紙を用意(ノート見開き1Pでもいい)して、上に〈評価〉〈時間〉〈環境〉〈憧れ〉〈方法〉と書いてほしい。次にそれらに関して、自分の今の学びの状況を書きこんでいくのだ。同じ人でさえも時代によって状況は変わってくるから、学術調査のように、権威として固定化しない方がいいと僕は考えている。「学力低下」のデータをとって大真面目に議論をしている人をみると、まずその人は楽しく勉強しているんだろうかって僕は思う。そんなつまらない議論に時間をつぶすより、最近私「~」なこと勉強していてすごく楽しいです、って言った方が「学力低下」の住人である僕の心には優しいのに。

5つの項目を書きあげたら、(覚え方は、【ひじかたあほ】「た」ぬき…音に意味はありません)それぞれの枠に自分の現在の学びの状況を書きこんでほしい。あなたの「できない」の正体はお見通しだ!なんて大仰なことをいうほど、学問の誠実さを欠いたまねをする気は僕にはありません。あなたがうまく言語化できない「できない」を表面化するために少々の努力を惜しまぬように。あなたが書きこんだ内容は、決して排反ではなくそれぞれが重なっている状態になるはずです。どこかにその内容を書いたら、他の項目にも入る同じことは省いてもいいです。その重なる部分が葛藤になって、「できない」という状況を作り出しています(定義)。

☆〈評価〉について

〈評価〉は、自分の内側と外側に二分できます。

自分の内側の評価は、外側の評価に大きな影響を受けます。逆をいえば外から大きな影響を受けないで生活することは難しい。例えばクラスで、外の評価である成績がびりの子が、自分を高く評価して、学校で楽しく過ごすのは難しい。なぜなら自分がやっていることに自信を持つことができず、常に疑いの心に苛まれるから。外側の評価を思うだけ羅列してみると競争、テストの点数、志望校、親や周りの反応、学校や塾の先生から嫌われないかどうか、などがあります。自分の内側の評価としては、自分の納得できることをしているかどうか、自信、自尊心、個性、自分らしさ、他の人に迎合していないか、などが挙げられます。自分の〈評価〉というのは、〈環境〉に大きな影響を受けやすい。例えば親がどういった考え方で自分を育ててきたか、それが自分の思考の内側で生き続け自己〈評価〉と不可分になってしまうこと。他にも先生がとにかく勉強をしろ、といって嫌々勉強をするとき、自分の意思〈評価〉と違うことをさせられているが故に「できない」と思ってしまうことがある。

〈評価〉が〈時間〉と衝突する例を考えてみる。例えば、なんとしてでも志望大学に入りたくて効率〈方法〉を過度に重視したため「数学」の面白さに気づかず、大学に入ったら「数学」をやめてしまった人。生涯学習〈時間〉を意識していれば、防げたかもしれないけど、志望大学に入るためには〈評価〉高い倍率を通過する必要があり浪人〈評価〉は嫌だという気持ちが生涯学習に打ち勝った。…こういった人が大人になって数学が「できない」という時、受験時の「数学」への嫌悪〈憧れの余事象〉や諦め〈方法の欠如〉の意思が含まれ、自己の現状肯定、成長否定がみられる「できない」をよみとることができる。

このように一つ一つ自分で分析してみると二つの項目の衝突を調べているつもりが、5つの項目が混ざってしまう。「できない」という状態がとても複雑な状態だということがわかるだろう。

☆〈時間〉について

〈時間〉は方法によって大きな制限を受けやすい。そもそも何かをやることが〈方法〉なのだから、それをやっている間のことが〈時間〉であり、〈方法〉と〈時間〉とは共通項の多い関係なのだ。ではその〈方法〉を選ぶのにどういった〈時間〉幅をとるかという点で、〈時間〉の考察をしてみる。まずいきなり「生涯学習」だという人は、多分いないので、まず手短な試験までに何を勉強するか、という時間幅が考えやすい。定期考査、実力テスト、外部模試、検定試験、入学試験、就職試験などたくさんの試験があり、目標とする試験までに適切な〈方法〉をとって勉強する。〈方法〉が悪ければ、同じ内容を学習するにも大きな差がうまれる。効率の良い教育を受けることができなかった〈方法の欠如〉と思っている人はそれを勉強が「できない」理由にしていることがある。また、どうしてもその試験に受かりたい時〈憧れ〉には、できるだけ他の楽しみごとも排除して勉強に時間を費やすだろう。目標達成のためにはある時間が無駄に思える…この無駄とは何だろうか?
〈憧れ〉達成のためには、休息や息抜きの時間さえ惜しく思えてしまう、こんなとき息抜き=無駄な時間だろう。生の充実のためには息抜きも大切なはずなのだが、他の人が死ぬ気で勉強しているのにそれに対する自分の怠けぶりを比べる〈評価〉と息抜きは無駄になってしまう。

では「楽しくてもすぐに成果がでない、もしくは評価されにくい勉強」をしている時間というのは無駄な時間だろうか。僕が高校・大学入試とお世話になった●吉永賢一『東大家庭教師が教える頭が良くなる勉強法』を参考に考えてみる。(以下引用同書)「大学受験レベルであれば、質問しても調べても答えのわからないものは、無視してOKです」「「残す―捨てる」は、将来の影響から判断する」「不要なものを捨てることで、集中力はアップする」…なるほど「やっておけば将来への好影響が考えられるもの」や「やっておかなければ将来に悪影響を及ぼしそうなもの」を残すという訳ですか。それならば、当面の入試に受からないと希望の職に就けない人や受験に受かることの方が受験の範囲内で大切なものを探そうという気持ちより強い人ならば、成果がすぐに出ない勉強をする時間は無駄に思えるだろう。一方、「受験の範囲内での大切なものを探し」の〈方法〉が分かりそれに重きを置く人なら、焦らずゆっくり学んでいく方に利を感じるから、その時間を無駄とは呼ばないだろう。

 時間には幅だけでなく、その時間をどういう速さで過ごす(速く感じられる)かという観点もある。例えば、本を早く読むか遅く読むかが挙げられる。
時間に関する議論はまだ僕には難しすぎるのであとは各自にまかせる。

☆〈環境〉について
僕はこんな話を本で読んだことがある。

Aさんは、当たり前の教育を受けてきて、常識的なものの考え方ができる。そんな彼(彼女)「以下彼に統一」のような普通に生活できる人でさえ、少し状況が変わるだけで、全ての秩序を破壊してでも、自分の正しいと思う主張を通す人になり果ててしまった。彼はこれまでも同じ物の見方をしてきていたのだが、それでもたまたま支障がでなかった。だから、「普通」に生活してきたのだった。「普通」に生きることの難しさは、いわゆるエリート教育を受け、真面目に自分で考えるようにしてきた人ならば、痛いほど分かるはず。しかし、彼に「普通」を教えた学校教育を含め周りの環境が貧困だったために、「普通」がふつうになり、一旦「普通」がふつうでなくなるとその害が津波のように押し寄せ全てを奪っていったのだった。貧困はその時に顕現するだけでなくて潜在的にずっと続くものだ。幼い頃の貧困が今顕在した例だと僕は思う。自分の世代の抱える貧困が数十年後に噴出することも当然ありうる話だ。(心配…というかもう爆発してるかも)

環境の貧困さは深刻であればその人から幼い時の学びの機会すら奪ってしまうものだ。また、自分が世界をどう見つめ考え理解する作業を蓄積している人と全くしていない人がいて、彼らが「世界が全て変わってしまうような恐ろしいこと」に出会ったとする。そんな気の遠くなるような惨事を前にして誰かが救ってくれるだろうか?これは救おうと思う人が周りにいたとしても、彼らを満足させることはあまり期待できない。なぜなら彼らしかその地獄を経験していないからだ。誰も私を救ってくれる人がいない…彼らがそう思うのも当然だ。恐怖で言葉すら出てこない、頭も真っ白、そんな状況で誰が救えよう。でも、もし自分がそんな状況に置かれたとするならどうだろう?たとえいつものように難しい単語がでてこなくて、簡単な言葉しか思考に入ってこなくても、自分が世界の本質について考えてきた一つ一つが、その易しい言葉に宿って僕を支えてくれるのではないかと希望を持ちながら勉強をするようにしている。環境の貧困さについてそれぞれが自分の周りで起きていることについて考えてみて欲しい。

能力という観点もあるが、僕は敢えて〈環境〉の一項目に入れることにした。例えば記憶力の低さは当面の受験勉強では「できない」要因となるが、「私」が取り換えの利かない存在である以上、結局記憶力の低い自分と付き合っていかないといけないからだ。僕はディスレクシアと認定されないにしても、異常に文字に弱く、頭の中で文字を保持できないと思うことが多い。(ディスレクシアに関しては『プルーストとイカ』参照)例えば、歴史のテストでは、漢字で正確に書くことが要求されるから、まず頭の音の情報のバックアップのために、覚えたい語を分解し、イメージしやすい具体的なものに置き換える必要がある。(例、★ドラクロア→ドラ【ドラえもん、ドラクエ】クロ【黒、クロワッサン】★最高価格令【いこうかくれEい栄…地名です】)次に用語と用語のつながりを覚える必要がある。(例、★アベシェイエス 『第三身分とは何か』【安部さんとは何か?】★モリエール『人間嫌い』【モリゾーの人間嫌い】)最後に音を思い出したところで、それを漢字に変換する必要があるが(蒙恬【猪が草の王冠をかぶって、舌を出すが心臓が飛び出てきそうな様子?】)、簡単な漢字の組合せだと逆にいつまでたっても覚えられない。知っていて識別できる段階から、書くという段階に果てしない距離を感じる人は他にも結構いるのではないか?レンブラントの展覧会を見に行った後に、テストでレンブラントを書かせる問題があって、彼の絵なら50枚は思いだせるのに彼の名前を書けなくて落胆したので、少しでも失点のリスクを減らすために、ゴロをたくさん作って、「できない」ことを埋めようと努力してきたが、自分は「できない」人間だという気持ちがつきまとうようになった。それではそんな頭を持った人にとって国語などの読字教科や読書が何故可能なのか、これは三章「カリキュラム案」で述べる。たとえ自分に劣ったところがあってもそれを埋め合わせようと努力すれば生涯学習の観点ではあまり困ることはない。

環境には選ぶことのできることもものと選べないものがある。選べるものは塾・志望校(入れてくれるかは別だが…)、その他公開講座、教養講座、図書館、インターネットなど学び媒体、活動の場(国内海外)などである。では選べない環境とは何か、親(その他付随してくる貧困)、学校の教師やカリキュラム、授業、現行の受験システムなどが挙げられる。選べない環境というのは、〈評価〉〈時間〉〈憧れ〉〈方法〉の内の多くの要素があらかじめ決まっていて、不服な気持ちを抱くこと人が多いが、一方で選べる環境がたくさんあってもそれら全てを実行するのは不可能だということも見落とせない。

環境の貧困…例えば経済的貧困から選択肢が狭められてしまうこともあります。しかし驚くことに●日高敏隆 阿部謹也『「まなびや」の行方』によると、アメリカの学生は皆大学に通うのに親のお金をあてにしないで、長期の奨学金と自分が働いて得たお金で学資金を用意するそうです…本当でしょうか?他にもファーブルは学校の先生になろうと思ったが、ある人に「必要な学力があっても財産が無い君には無理だ」といわれ、化学染料の研究でお金を稼いだという。…心から勉強をしたいと思えば、誰かに助けを求めるのでなく自力でなんとかするものなのかもしれません。

塾について…これは中学でしか塾に入ったことのない僕にはあまりわからない。中学なら、学校の補いや志望校合格のため、気分転換や楽しい場所として塾に通っていた。予算が高いことや塾側が「親子ともに合格を最優先に望むものだ」ということを前提として〈方法〉を押し付けてしまうというデメリットもあると思う。

志望校について…現行受験システムでは主にトップダウン式を採用しており、東大京大など含めた旧帝国大学、難関私立…という風に各々権威特色をもって生徒たちを惹きつけている。そのなかでどれを選ぶかで、〈評価〉〈時間〉〈憧れ〉〈方法〉も変わってくる。

公開講座、教養講座、図書館、インターネットなど学び媒体について…こういった学び
媒体は使わないで済ますこともできるが、〈方法〉の選択肢を減らしてしまうことにつながる。
親について…ノーコメント、これぐらい自分で考えて!


学校の教師やカリキュラム、授業について…現役時を思い返すと、授業内容に不満を言う人は確かに多かった。僕は割と真面目に授業を受けたけれども、全く記憶に残らなかった授業もあった。それでも現役は基礎固めが重視されるので授業時間内を集中して理解に努めれば、良書の学参の補いだけでもなんとかなるような気がしていた(でも入試は甘くなかった…あなや)ただし、その人自身の能力〈環境〉や志望校の難易度〈憧れ〉も複雑に混ざりあっているものだから効率〈方法〉が良ければいいという訳でもないだろう。カリキュラムに関しては教える側の融通が利いている授業が案外多かった。でも、肝心の知りたいところを曖昧にしてしまう先生もいて、その曖昧な部分を独力で理解しようとするのにかなり時間がかかった。まずそういった曖昧な部分に迫るには本質を掴む必要があるが、それに適した本というのは少なく、またそういった本は基本習得が前提で書かれているためある程度の学力が無いと読めないことがある。曖昧な部分が分野横断の性質を持っていれば、両方の分野に深い理解が必要であるため、本当にそういった疑問に迫ることのできたのは浪人生になってからでした。それまではずっとわからない〈方法の欠如〉という気持ちから「できない」と感じる日々を過ごしました。ただ一旦浪人してしまえば、そういった要求を満たす本を探す時間のゆとりがでた結果、自分の疑問と向き合うことができるように手助けしてくれる本と出会えたので良かったと思っている。(三章のカリキュラム案を参考)現役にどうしても受かりたい人は、参考書や塾を有効活用すればいいし、そうでなく勉強自体に興味がある人は現役を自分にとっての「問い」をたくさん作る期間にしてはどうか。能力のある人はそれだけでも受かるものだし、ない人は頑張っても受からないこともあるだろう。環境は見方次第で変わるものだ。

現行の受験システムについて…自己弁護になるが、日本の大学受験という社会システムは、「できない」人に割と優しい。(「できない」の考察なのに「できない」が自明…変だな)中国では大学受験は一発勝負で浪人はなし(自主留年は一応OK…)だから、露骨に利権競争であるし、正統性維持のための振り分け制度であることは明らかだが、日本のシステムでは、ある程度周りの理解を得ることができれば、「できない」人が少しでも成長できる時間が与えられる訳だ。それを意識していれば、受験勉強だってもっと視野を広くできるのだから、自分の実力ぐらい自分で弁えて、できるようになりたいことがあるのなら、あらゆる手段をもってそれに臨めばいいと僕は思うが、これは外部〈評価〉や自分の志望校への思い〈憧れ〉と衝突するので受験生にとって究極の問いとなる。

☆〈憧れ〉について

この術語は僕の趣味から〈憧れ〉にしただけで(おい)、人によっては目標や夢などと言い換えできると思います。〈憧れ〉の対象が、自分にとって価値の高いものであればあるほど、自分の現在の状態〈評価〉との差は大きくなります。また、その〈憧れ〉に近づく〈方法〉も難しくなり、〈時間〉もとてもかかる気がしてきます。自分の内側の〈評価〉もそれに向かっている間やそれを達成することで高まります。外側の〈評価〉も付随してくることもあります。逆に外側の〈評価〉を気にするがために〈憧れ〉を抱くこともあります。

〈憧れ〉の高さに対して〈時間〉〈環境〉〈方法〉がうまく調整できないとき「できない」と感じますが、そう思うともっと〈憧れ〉が遠くなる気がします。

知り尽くしていることにはあまり〈憧れ〉の気持ちはおきません。〈憧れ〉の反対は〈嫌悪〉などが挙げられます。例えば、「勉強が嫌い」とはどんな状態でしょうか?だれかを嫌いに思うような時は、その人が普通すべき振る舞いを逸脱して他の人に迷惑をかけているという点で自分は逸脱しないように努力しているのに、その人は平気でそれを破ることに嫌悪感を抱いている。つまり自分にも逸脱願望があることが暗に示されるし、「逸脱」に関してその人と共通項があることもわかります。これと同じように、「勉強が嫌いだ」の状態を考察すると、その勉強を嫌いに思う人は、努力をしても自分にとって理解ができないものとして既に勉強を知り尽くしているのではないか。そういう理解で自分の思考を止めてしまったために、予想外のことに出会う可能性を失ってしまった状態、これを「勉強が嫌い」というのだと僕は考える。

☆〈方法〉について
これは今本屋さんに行けば、勉強法としてたくさん売りだしているものです。他の要素
〈評価〉〈時間〉〈環境〉〈憧れ〉と相談したうえで適切なものを選べばいいと思います。


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  1. 2013/03/11(月) 20:20:03|
  2. 世界一面白いカリキュラム研究会
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