私家版 カリキュラム研究所

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二章 世界一面白いカリキュラム研究会(仮称)

二章 世界一面白いカリキュラム研究会(仮称)について

近頃、自分で憲法を作ってみようという活動をよく耳にする。実際に自分の頭で憲法案を作りだすためには、下準備としてかなりの勉強が必要である。そうでない限り、恥ずかしくて人には見せられない。それによって誰にとっても理解できるものを作ろうという方向性が自然と生まれ、独断の可能性が(少しだけ)排除される。なにより自分のこととして考えるべきものなのに、人ごととして済ましてきた自分の愚かさに気づけるのがすばらしい。
 思想家の内田樹氏によれば、何かをよく知りたいと思った時、より本質に近づくためには「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」を起点に議論を開始し、その「答えられない問い」時間とは何か、死とは何か、性とは何か、共同体とは何か、貨幣とは何か、記号とは何か、交換とは何か、欲望とは何か…といった一連の問いが、私たちすべてにひとしく分かち合われた根源的に人間的な問いである、と主張する。(以上『寝ながら学べる構造主義』より引用)小説家の高橋源一郎はさらに深めて、自分でわからなくてもまずそれをやってみる、そうするとそれがよくわかると主張する。『一億三千万人のための小説教室 』

ならば理想の教育とはなんだろう?政治家は理想の教育を知っている、その実現方法もわかっている…と思っている。彼らの言っていることを聞いていれば、彼らが何を知らないかよくわかるだろう。僕はなにより「勉強の面白さ」を知らない点に同情を寄せる。何故なら僕も「勉強の【本当の】面白さ」を知らない一人だったからだ。我ながら【本当の】という表現に、何度翻弄されてきたかわからないが(世の中の悪書は大抵この表現を好む)、敢えて使ってみた。では【本当】とはどんなものであるか、僕は次の2つをみたしている勉強が【本当】に面白いものだと考える。
一、「教えるという行為」が、「教えられた側が自分で考える」という段階に移行するのに大きな溝があり、その溝を越すことを可能にしてくれるような内容を学べる勉強。 
二、自分で考えられるようになった人が、そこから一生涯学び続けるという段階に移行するのにはてしない距離があるが、それでも一生涯学んでいけると感じさせてくれる勉強。
この二つを満たしていればとりあえず【本当】の条件を満たしているでしょう。これは、筆者の経験上、悪情報7割を撃退できる一番簡単かつ効率的なやり方です。
でも【真】の(ここで【真】とは便宜上【本当】の上位概念)と名乗るには僕には十分でない。僕が僕のためにめざす学びは、「どんな苦しくて、言葉すら目茶苦茶になり、周りが見えなくなったとしても、それでも寄り添ってくれた、そんなものを与えてくれた」と晩年に言えるに違いないと勉強しているこの瞬間に思えるものだ。(今と晩年がループする学び…我ながらわかりにくい説明)

勉強をアクセサリとしてでなく、一生楽しんでいけたら、能力の中途半端な人でもかなり力がつく。しかし、社会人になって仕事に就いた後も、合間を縫って学問を楽しむためには、大学までの時間のある内に最低限の基礎をつけておく必要がある。今のご時世、図書館や良書、ネットなど最高のインフラがそろっているのだから、ハードルはかなり低いのだけれど、まずそれを十分に活用できない人が多い。そこで、世界で一番面白いカリキュラム研究会(仮称)では、一生学んでいくための独学カリキュラムをたくさん作って、まず自分が勉強を思いっきり楽しむ。そのうえで、無料公開して、学生や学校の先生、一般の方の良識維持のために頑張ろうではないかというごっこ遊びをしています。

一般に多くの人はカリキュラムをうるさいものだと思っているかもしれない。上からの押し付け…でもそれを大真面目にやる必要はないでしょ。大枠を与えられたら各自が臨機応変にカリキュラムを活用すればいい話なのだから。夢だの理想だのを自分が語っている分ならいいけど、それを人に押し付けるようになったらおしまいだと思う。この文章を書くために読んだ本の中には、夢を持て高い目標を持てと教師や生徒に訴えて教育改革をする本が結構あったのだけれど、これはホントはまずいのではないかと思う。それぞれの子供に可能性があり、それを生かしていこうという気持ちを持つことは確かに善いことかもしれない。でも子供達の「できない」をしっかり理解したうえで、そんなことを言っているのだろうか?もっといえば、自分の「できない」を理解してすらいないのではないか?社会のために善かれと思って、「できない」先生を解雇しているのなら、僕は頭をかしげる。もっとやるべきことがあるんじゃないか。自分が勉強を楽しむ前に、「教育」なんてできるのだろうか。「できない」は各人にとって全く違った様相で現れることは「できない」の構造で考察してきた。(まだ自分の「できない」分析が済んでいない人はやった方がいいですよ!)

ここまで「できない」の考察をさんざんしてきたが、勉強が「できない」から「できる」状態、つまり自分で考え続けれるようになる必要はどこにあるのだろうか。例えば、ある中学生が勉強をするよりゲームをした方が楽しいとか自分はスポーツがよくできるから勉強しなくても生きていけるとか、お金に困らないから私は遊んで暮らせるのよ…と言い出した時、彼らに勉強をしてもらう必要がどこにあるのだろうか。僕にとって養老孟司先生の話が興味深かったので要約してみる。

養老氏は自身の人生に大きな影響を与えた事件として、「小学校二年生の夏に起こった敗戦」「東大医学部助手になって二年目の大学紛争」「東大教授時代に起こったオウム真理教事件」(引用 『養老孟司の大言論』以降の同段落内の引用も同じ)の3つをあげる。これらの事件はなぜ起こったのか考えていくうちに、「思想の恐ろしさ」に気づく。誰にもわかってもらえない考えを持つ人が、それを自分らしさと勘違いする。思想教育を怠ってきた社会もそれを助長し、「自分には思想などという立派なものはない」「そんなものはだれか偉い人が持つものだ」という思想を持つ者が大半をしめるようになる。そんな社会では、人にわかってもらえない考えが肥大し、究極として八紘一宇という言葉が普遍的だとされたり、尊師が水のなかに一時間いられると信じる東大医学部生が生まれる。どうすればこうしたことを防げるか?養老氏は、良識をもつ近代市民からなる社会として設計されている日本社会において、全てのひとがいわゆるエリート教育というものを受け、各々が自分で考え自分の足元を点検していくしかないと主張する。

世論がそれなりに正しい判断をするだろう、という前提で成り立つ民主主義を採用するなら、国民全員が『考える人』にならないといけないのも頷ける。エリート教育というと、自分と全く違う世界だと思って耳をふさいでしまう人も多いと思うが、エリート教育は大学入試の受験勉強(とその延長)にすぎないと僕は考える。進学校だから特別な授業を受けている訳では無くて、やっている内容は本屋さんに行って、ある科目について定評のある参考書を10冊程度(ちょっと多いかな…でも3年分だからこれぐらいは最低でも)やればその科目についてまず基礎はできたようなもので、その後に身に付けた知識をもとに自分で色々考えて頭の中の整理をすれば、進学校での数年間で教わる内容をはるかに越えたものを得ることができるだろう。逆をいえば、10冊の努力を惜しむ人は、その10冊分を自分の頭で考えることだけで乗り切ろうとしているのだから大変なものである。自分で考えるという作業を続けるのはとても難しい。なぜなら、世界は言葉できれいに切り裁くことのできない複雑なものであるから。色々な方向から眺めて、一番納得のいく場所から切り進めてもすぐに言葉の刃はひっかかって動かなくなってしまうし、動かなくなった状態で無理やり動かしてしまえば、刃こぼれしてその言葉自体が力を失ってしまう。

東大や京大など難関校とよばれる大学の問題がなんであれほどに難しいのか?それは、世界が複雑であるということと深いつながりがある。僕らはともすると複雑な世界を単純に捉えようとしてしまう。でもそんな単純な捉え方では、社会制度そのものを設計することはできないし、人間とはどんな存在か、世界はどういう風に成り立っているかといった本質的な問いに太刀打ちできない。だからそういった問いと戦う人を大量生産するために、これまでの人間の研究成果を集約して、その初歩をまとめたものが大学入試で、まずそれらをはしごに考えるということがどういうことかを学んでもらおうとしているから難しいのです。例えば、普通の人には考えるのさえ恐ろしい問いがあります。「私はなぜ生きているのか?」これは考える訓練を受けた僕でさえも考えるのが怖い。どろどろしていてそこから何が飛び出てくるかわからない。そんなことを考えているなんてこの社会でいえば、大丈夫相談に乗ろうか?っていわれるのがおちです。(多分相談に乗ってくれる人も考えたことないだろうな…)でも、「自分とは何か」を考えるなかで絶対に避けられない問いであるし、もしこれまでにそういったことを考えてきた哲学者の思考力や勇気をその著書を通じて分けてもらわなければ僕には触れることすら難しい。こういった超弩級な問題がごろごろ転がっているのが僕らの生きる世界だということ、それに気づくだけでも受験勉強はとても意味のあるものだと思います。

世界一面白いカリキュラム研究会(仮称)の話に戻ってその活動を説明してみる。
1、ゲリラ運営
2、活動は真面目にせず、あくまで遊びを追求する
3、自分で自分が本当に欲しいカリキュラムをつくってみる

ゲリラ運営とは、それぞれが自分のできることを勝手にやっていく運営の仕方です。ネットなどで公開しないで私的に楽しむのもよし、勝手に「~カリキュラム研究会」と名乗って公開するのもよし、とにかくなんでもありの研究会です。自分が研究会の一員だと思いこめば入会完了、やる気がなくなれば自動解約という便利なシステムであります。世界一面白いカリキュラム研究会が仮称になっているのも自分で好きな名前にした方が面白いと思うからです。ちなみに、僕はこの発想を世界史と●森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』のゲリラ演劇『偏屈王』からヒントを得ています。

一人の人がリーダーとなってみんなに呼びかけるような大きな運動による解決はあまり良くないと思う。塾のように規模が大きくなれば、それだけ生きるために頼る人が多くなるわけで、所属成員も行動に制限がでてしまう。(それでも、塾が正常にやっていけるのは、その業界の多様性、相互監視力のおかげです。)組織が大きくなればそれだけ他の勢力とぶつかる確率が高くなり、面倒なことに時間をとられることになる。それよりは各々が自分のために学んでいく、それを各自記録していくという作業を続ける。全国規模でそういった足跡が残るようになって、いつの間にかネット空間にゆるやかな学びモジュールが成立し、他の団体と一線を画す勢力になっていた…。こんな風になればいいのにね。

アマゾンのレビューでやたらと批判を加えるのに、その代替策も提示しない、非建設的意見を書き込む人がいる。確かに一部に間違った内容が書かれているかもしれないが、その本が誰にどれほどの価値を持つか、本当はわからない。でも真面目に生きる人にとって、間違ったことの存在自体、許せないことなのだと思う。真面目を追求する限り、間違いを恐れ憎み罵ってしまう。そういった間違い嫌悪の風潮のせいで、「できない」人が自身の「できない」を闇に追いやってしまう結果になっていることに気づかない人が多い。

ああ、由々しきことかな。正しさを追求して間違った道を選んでしまうこの世界。こんな世界だからこそ、あそび心が必要なのだ。この研究会もあくまでごっこ遊びに徹します。
熱くなりすぎないことがごっこ遊びの良い点で、もしこんなことを本気で訴えかけていたら、同じく熱い人に、あれが無いだのこれが無いだの、お前には語る資格は無いだのどやされてしょげていたことでしょう。

ここで話題を脱線して僕が好きな現行受験モデルについてのべてみる。

現行モデルは主にトップダウン式をとっており、東大京大など含めた旧帝国大学、難関私立…という風に各々権威特色をもって生徒たちを惹きつけている。上にあがればあがるほど、希少価値は高くなっていくのだから、当然席も少なくなり、結果として望まない大学に行くことになる人もたくさんいる。それ故に、なんとしてでも入りたい。難関学校志望者は自分の学びに責任を持って、何ができるようになりたいかを見失う人は少ない(と思いたい)が、中堅の進学校になると先生すら流されて高3からセンター試験のための授業になったりするらしい。そんな先生は目先の利益に流される程度の学びしか経験していないと思われ、まずそういう人を励まして学びを基礎づける必要がある。そうでない限り、生徒のトラウマ大生産は止まらない。

次にトップダウン式である以上、避けて通ることのできない課題について、先生・生徒ともに考える必要がある。それは「もし受験の敗者にまわったときに、自分は(教え子は)その外傷をカタルシスし、さらに学び続けることができるか、そういった勉強をしているか」ということである。受験や学校教育で複雑に学びを阻害された人は死んでも勉強したいとは思わない。もっと視野の広く、時間の幅をとった教材を使用できればいうことなしだが、そうでなくても各々自主的にそういった考えを授業なり勉強に取り込む必要がある。先生が自分の分野の面白さに一度生徒を魅了させてしまえば、その楽しさから逃れられないそんな授業が望ましい。そのせいで何人かの人がその分野を少し先まで勉強しすぎて、他の教科が手薄になり受験敗者に陥ったとしても、その人の経験した学びの快楽はその外傷を癒しさらなる成長に貢献してくれる…といいな。(希望的楽観) 本来塾が民間持ち前の自由度をもってそういった授業をするべきだと思うけど、入試問題打破に特化しすぎているのが現状なので、学校教育がそういった授業をするしかないのです。

話をもとに戻して、自分で自分が本当に欲しいカリキュラムをつくってみるとはどういうことか。これを説明するのに、「自分の思っていることとやっていることが違ってくる」ことについて考察するのが一番わかりやすい。

例えば、自分はピアノができるようになりたい。一時期はピアノのレッスンに通っていたけど、受験で忙しくなって辞めてしまった。でもまたできるようになりたいと思う…という人がいたとする。数年後その人にまた会ってみると同じ事をいっている。どんな曲ができるようになりたいの?毎日練習してる?練習楽しい?ピアノの先生に指導受けてる?、と聞いても要領を得ない質問しか返ってこない。彼は、ピアノができるようになりたいと口に出すことで、何か現状を変えるきっかけになるのではないかと思っている。でも、彼自身が「できない」という状況を「できる」ように変えるためには複雑な「できない」という状況を理解したうえで、自分の身の程にあった打開策を講じなければならず、心で思ったり、それを口に出すだけでは不十分である。

「自分がそうなりたいと願うこと」と「そうなること」の間には果てしない距離があるかもしれない。でも人生は一度しかない。言い換えれば勝負は一生涯ということでもある。ここで一度自問して欲しい。自分が本当に欲しいものとは何であろうか。それは誰かが与えてくれるものであろうか。

第三章のカリキュラム案は主に僕が浪人時に出会った本から構成されていて、自分の使い方をコメントしてある。(だから『浪人マニュアル』)これは自分が現役の時に、こんなのあったらいいなと考えていたことを実現してしまったものだ。これまでにたくさんの優秀な友達や先生方に出会ってきたが、自分の欲しいと思う何かを示唆する情報はくれても、自分の満足のいく段階に至るほどのものでは無かった。自分で問いを立て、それに答えていく作業を地道に続けて、現段階までに積み上げてきたものがようやく他の人に伝えることができると思えるぐらいになったので、ここに公開する運びとなった。

自分が自分で学ぶのにカリキュラムは誰かに与えられるものだろうか。自分が本当に欲しいものは、自分しかわからないと思うし、実のところ誰かが与えてくれるものでもないのだと僕は考える。だから、自分で自分が本当に欲しいカリキュラムをつくってみる、この作業が大事だと僕は考える。

最後に同世代の学生に一言。

現状システムは、ある程度時間の融通が利く点において優れており、その平和を享受できるものが、思いっきり楽しむのが大切だと思う。そして今から未来の自分の型を決めておくといい。例えば

「僕が学生だったころはね、皆自分がどういう人間をめざしていきたいかを念頭に思いっきり勉強に打ち込んでいたものだよ。最近の子供たちは、昔より時間の余裕は少ないかもしれないけどね、勉強の楽しい部分を捨てて卒業するのは人生の損だよ。」

みたいな語りをしている自分を嘘でもイメージできるようになれば、上出来です。どんな理想も始めは嘘だったんぞ!一人の行いから、現実修正を進めていくことが良識ある社会を目指す一番確実な方法です。

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  1. 2013/03/11(月) 20:17:42|
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